「複層する視界 —主体と客体の間で—」|text=藤川悠(2020年3月31日 )

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2020.3.31

 

複層する視界

―主体と客体の間で―

 

藤川悠(茅ヶ崎市美術館 学芸員)

 

 

写真と絵画を用いた表現手法で知られるアーティスト、城田圭介の国内の美術館における初となる個展「城田圭介 -写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS-」(茅ヶ崎市美術館 会期:2019.12/14-2020.2/11)が、昨年度末その会期を終えました。初期作品から近作まで9シリーズからなる約260点の作品が展示され、城田の作品世界を一望する初めての機会となりました。

作品を見たことのない人たちに対し、作品に使われている素材や手法、緻密な職人的な作業については言葉にして伝えるのは比較的容易ですが、展示室で作品を前にして、見たもの、感じたことを伝えようとすると途端に一筋縄ではいかなくなるというのが城田の作品の特徴です。今回の展覧会でも、鑑賞者からは“不思議な世界へ連れていかれるようだった”“言葉になり難い作品に改めて美術の意義を感じた”“1冊の哲学書を読んでいるかのようだった”との感想が聞かれました。昨今のSNSの流れを受け、展示室では全作品撮影可となっていましたが、作品に使われた写真の上に塗り重ねられた絵の具は背景の色と同化し、その微細な差異をスマートフォンなどのカメラ機能では捉えることは困難を要するものでした。作品の肝となる部分が撮影できないため、いわゆるインスタ映えとは縁遠い展覧会だったようです。

 

しかし、視覚情報による伝達技術の急激な発達により、作品が写真や言葉により断片的に切り取られ、アーティストや学芸員の意図が汲み取られることなく、汲み取ろうとさえされない状態で拡散されていくことに美術界の危機感が増す昨今、展示された場で作品がもつ要素をじっくりと見て、自分の中での何かと照らし合わせ、一晩静かに過ごし考える。そして、また考え始めるという、当然ともいえた鑑賞体験を、城田の展覧会は改めて促すようなものであったといえるでしょう。実際に、展示室では作品のすれすれまで顔を近づける人、上体を左右に揺れ動かしながら見る人、しゃがんで下から覗き込む人など、身体性を伴う様々な姿勢で作品を能動的に見ようとする鑑賞者の姿は、とても印象的なものでした。

 


 

画角の拡張

城田は、写真と絵画を組み合わせた作品を東京藝術大学美術学部デザイン科に在学している頃から制作しています。茅ヶ崎市美術館の個展においても最初に展示されていた《A SENSE OF DISTANCE #12》(2003年)は、その後の同大学院の卒業の際に制作されたものでした。2002年頃から制作している初期の代表作であるこの《A Sense of Distance》シリーズは、街の何気ない風景を撮影したスナップ写真を画面に配置し、スナップ写真を基点としてその周囲に拡がっていたかのような風景をアクリル絵の具で描き足す作品です。カラー写真から延長する風景は白黒のモノクロームな世界へと変化し拡張していきます。城田本人は、写真から拡張していく風景については下記のように語っています。― 架空の風景というわけではなく、写真から得られる情報をもとに描き、写真からの情報で分からない部分については描かないと決めて制作しています ―

実際、写真に写っている高速道路や建物など構造物の線、窓から差し込む光や外灯の配置などの図形的な情報がもとにされていることが分かります。そして、おそらくそこには城田自身の経験や記憶の情報からも引き出されたであろう風景が拡がっています。

 

キャンバスの中の写真から拡張する風景作品であるこのシリーズについては、2008年に川崎市市民ミュージアムで開催された「現代写真の母型2008 写真ゲーム展」を企画したキュレーター深川雅文氏が、グローバル・ネットワーク化した膨大な情報社会の中における写真と記憶を絡め「《見ること》への創造へ」と題した的確な論考を残しています。*1

 


 

写真と絵画、そこからの分岐点

作品では写真と絵画を同時に扱う城田ですが、2つのメディアについて、茅ヶ崎市美術館での個展のステートメントでは、次のように言及しています。

― 写真と絵画(=西洋美術)、両者は日本では幕末~明治にかけて日本の近代化とともにほとんど同時に受容されました。西洋では写真の登場は歴史ある絵画の在り方を大きく変えましたが、日本では両者は海のものとも山のものともつかないまま同時に受容され、ただその迫真性に素朴に驚き、眼差しが刷新されたのだと思います。(中略)日本の近代絵画においてはその始まりから写真も同時に受容されていた。その経緯に立ち会った彼らの心情を想像し、自らの重なりを覚えることも確かにあるのです。 ―*2

 

このステートメントから、城田が西洋美術の歴史における写真の在り方に思いを馳せながら、写真と絵画2つのメディアに対して過度に身構えることなく、同等な扱い方で自身の制作に取り入れていることが分かります。しかし、近作では写真そのものを実体としては使用しない作品へと分岐を示しているため、そのシリーズについてみていきたいと思います。

 


 

空間軸と時間軸(ミンコフスキー時空)

2015年から制作されている《Tourist》シリーズは、画面に不自然とも言える十分すぎる余白が特徴的な作品です。おまけに、写真が物質的に作品の中に存在していないという点において、これまでとは明らかに異なる展開を示しています。このシリーズでは、広場や建造物、史跡、ミュージアムなど城田が実際に訪れた旅先で観光名所を写した写真が使われています。そして、本来、写真の主体ともいえる名所はその背景を上から描くことにより消され、偶然写り込んでいる観光客のみ、写真の中からキャンバスへ移動するように忠実に描かれています。

この《Tourist》シリーズには、作品の内外に少し不思議な複数のレイヤーが存在しています。作品は、先ほどお伝えした通り観光写真がもとになっています。写真の中では、観光地の遺跡や広場などの名所があり、その前面に名所を見るために集まり、カメラを構える、列に並ぶ、見上げるなど、観光の際の無意識的な振る舞いをする人々がいます。そして、実際には写真には写ってはいませんが、その観光客の後ろで写真を撮影する城田本人がいます。もし、名所の背景までカウントするとなると、少なくとも見ることのできる3つのレイヤーと見ることはできないけれども存在している1つのレイヤーが、写真の中で同じ空間内に存在していると捉えることができます。そして、旅から戻り、アトリエで何かのきっかけに写真を見返し、たまたま目がとまった観光客である人間のみを絵筆を使って描き出す城田。さらに、美術館という場において、完成した作品を見る鑑賞者、後ろには鑑賞者たちを見つめる監視員や学芸員たち。ややこしくなってきましたが、奥から手前へ、その後ろへとつづくレイヤーが延々と現れ、平面作品の中で遠近法とは異なる様子で空間が重層的に拡張されているといえるのです。

 

加えて、城田は、歴史の中で何百年、何千年とその地に存在する遺跡などの建造物を前にすると、観光客は一過性の存在といえるのではないかといいます。しかし、一過性ともいえる存在である観光客であり人間の日々の営みの方に何かしら価値の比重があるのではないかと気になりこのシリーズを始めたといいます。また、一過性の存在と思える観光客を描くために、あえて歴史に培われた伝統的な技法である油彩で描いているともいいます。この時間や空間を自在に伸び縮みする物差しを使って表現してしまう辺りはアーティストだからこそ為せる技の1つといえるでしょう。

 ご存知の通り、これらの時間と空間の関係性については、これまで様々な哲学者や科学者たちが色々な手法で論じてきました。その中でも、「ミンコフスキー時空」の図は城田の作品世界をよく表しているように思います。*3

 

ドイツの数学者ヘルマン・ミンコフスキーは、時間(1次元)と空間(3次元)を統一して扱っています。《Tourist》シリーズに見られるような、時間と空間の関係についても、この図をもとにすると観測者の地点から空間が水平に後ろにも前にも、そして、時間が垂直に円錐形に拡がっていく様 子が頭の中でイメージしやすくなります。つまり、作品は形態としては平面の二次元の形式をとってはいるけれども、作品を前にする鑑賞者も取り込みながら、二次元でおさまってはいない複層的な視界を伴う作品であることが明確になってきます。


 

「見る」と「見られる」

もう1つ重要なポイントとしては、「見る」対象と「見られる」対象の逆転が起こっている点です。本来であれば、観光客は名所を「見る」側の立場で「見られる」側は遺跡などの名所であり、観光客は「見られる」対象ではなかったはずです。しかし、作品の中では観光写真の中で見るべき対象であり写真の大部分の面積を占めていた主体が消され、主体の圧倒的な存在感により、見えていたけれども特段気づかれていなかった観光客の部分に焦点があてられています。では、消された主体部分が本当に無くなったかというと、そうでもなく、むしろ消されたことにより、その余白に一層意識させられるという逆転するような現象が起きてくるのです。この逆転する部分については、あとでもう少し触れてみたいと思います。

 

次に《Tourist》シリーズと対を成すように制作された《Landscape》シリーズにも、目を向けてみましょう。一見すると、普通の写真作品に見えてしまうこの作品ですが、これも城田が―「見る」という視線自体は不可視なものだが、「描く」という可視的な痕跡が加わることで「見る」という見えない行為をより意識的に感じたい ―と常に語っているように、全ての作品には随所に描く行為が加えられています。《Tourist》シリーズとは反対に、観光客の部分のみその背景描写で埋め、まるで誰も居ない風景写真かのように見せている作品です。具体的な作品をとりあげてみます。ギリシャのパルテノン神殿で撮影した写真がもとになっている《遺跡と犬のいる風景》では、奥に神殿などの建造物、その前に観光客、そして、餌をもらえることを期待して彷徨っていたのか黒い犬が写っています。先ほどの時間軸はここでも確実に意識されており、紀元前432年に建設された神殿はそのままに、おそらくその場での滞在時間は30分~1時間程度でしょうか、神殿に比べたら一過性の存在といえる観光客は絵の具で塗り重ねられ見えなくなっています。そして、作品の中に残された現地の黒い犬は、観光客より長くいるだろうからと滞在時間の関係から消さずにいたようですが、犬はそもそも観光客ではなく、また現地に属するものだろうからと最終的に消さずに残したといいます。


 

中動態の世界

初期の《A Sense of Distance》シリーズを除くと、いずれの作品の中においても、描きながら消すという「描く」「消す」という一見すると相反する事態が生じています。そして、常に「見る」「見られる」という関係性が意識されており、どうやらその両者の中間で絵筆を手にする城田はいるようです。この「見る」「見られる」の関係性については、実存主義の概念で知られるサルトルも著書「嘔吐」の中で、主人公が美術館の展示室で肖像画に眺められているような感覚に襲われ、逆に肖像画を睨みつけるように眺め返すというエピソードを書き、視線の対決と主体性の在り所について説いています。*4 

しかし、この2つの視点では語ることが難しい「見える」「見えていた」という主体性のない視線の在り方も我々の世界には確かに存在しています。

近年、「する」「される」のいわゆる能動態と受動態の2つの態に加えてもう1つ、古代ギリシャ時代には存在しながらも現在では失われてしまった「中動態」という形態に注目が集まっています。美学研究者の森田亜紀氏は著書「芸術の中動態 受容/制作の基層」において、メルロ=ポンティを発端に主体–客体、能動–受動を超えた自然な展開での「見える」について思索を広げています。*5 そして、この「中動態」こそが、我々の責任の所在を明確にしないと成立しない物事の捉え方から先へ進む方法であり、新しい自由へとつながる可能性を秘めているのではないかと「中動態の世界 意思と責任の考古学」の作者である哲学者の國分功一郎氏は提唱します。*6

 

普段、我々は自分で意識しているもの、他者から意識させられているもの、そして、自分も他者も介入せず無意識に流れていくものの中で、日々の生活が成り立っているといえます。城田は、この普段は特段意識されることなく、存在としても無かったようなものたちに視線の先を合わせています。そして、時間や空間の中で自在に思考を巡らせ、レイヤーの深度を変えながら、独自の技術を用いてその存在を表現しています。作品の中には、見えるもの、見えないもの、見えていたかもしれないもの、存在しているもの、存在していないもの、どこかで存在しているかもしれないものなどが、破綻することなくおさまっています。そのため、見ようとする者は近づき見ようとするほど捉えづらく、そして、存在してはいたけれど現在目の前では既に存在していないものを言葉にすることは難しく、鑑賞者は不思議な世界へと誘われてしまったかのような、そして、1冊の哲学書を読んでしまったかのような感覚に襲われてしまうのです。


 

人が消えた現在

 

2020年3月現在、地球規模で急激な感染拡大している新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が、世界の広場や観光地から人々の姿を消し去っています。この事態が起こる前、城田の作品《Landscape》シリーズについては、その写真に写された風景や絵の具で描かれている人物が、現実的な関係性から切り離され「何も」そして「誰も」存在していないかのような一貫した静けさに特異性とその魅力を感じていました。しかし、この事態で世界はあっという間に変わってしまいました。現実とかけ離れていたはずの作品の中の風景は、今や現実世界として現れ、連日テレビやパソコンの画面を通じて我々の目に入ってきます。人が居なくなった風景を、我々はこの時期だけはと受け止めつつあり、そこに以前あったような人の存在を求めながら画面を見ているようです。そして、感染を防ぐために会えない人たちとネットを駆使しやりとりする日々に、これまでより一層、視覚と音声情報による伝達技術が進化しています。そのような中で、長い歴史の中で一過性の存在ともいえる我々人間が、この刻々と変わる現実世界を前に、今、何を見て、何を感じ、何を考えるべきなのか。作品の中で描き、消すことで、見えなくなったその存在をあらわにする城田の作品を前に、再び考え込む時間が流れていきます。


1. 深川雅文essay「《見ること》の創造へ」城田圭介論

https://www.mfukagawa.com/post/shirota_keisuke(2008年9月初出:Keisuke Shirota,Galerie Stefan Röpke,Köln.)

2. 茅ヶ崎市美術館「城田圭介 -写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS-」図録

http://www.chigasaki-museum.jp/exhi/pub/63/(2019年12月発行 公益財団法人茅ヶ崎市文化・スポーツ振興財団)

3. ウィキペディア ミンコフスキー空間 https://ja.wikipedia.org/wiki/ミンコフスキー空間

4. 海老坂武「サルトル 実存主義とは何か 希望と自由の哲学」(2020年3月発行 NHK出版)

5. 森田亜紀「芸術の中動態 受容/制作の基層」(2013年3月発行 有限会社萌書房)

6. 國分功一郎「中動態の世界 意志と責任の考古学」(2017年4月発行 医学書院)