展示後の所感 —見ることの不可能生—|(2020年4月)

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展示後の所感

―見ることの不可能性―

 

城田圭介

 

 

「芸術の本質は見えるものを再現するのではなく、目に見えないものを見えるようにするものである」というパウル・クレーのあまりに有名なセリフがある。それが全てを物語っているかの様にいつだってアーティストは見えないものを可視化するのが仕事だった。それはときに作家の内なる感情や空想であり、言語化不可能なイメージやフォルムであり、記述されることのない記憶や歴史であり、社会や制度についての批評であり、愛であり、神であった。

それらは「不可視のものを可視化する」という言い方で頻繁に表され、アートを語る上で便利なワードとして根強く定着し、すでに使い古されてしまったのかも知れない。僕自身気付けば「『見る』という行為自体は不可視なものですが、『描く』という可視的な痕跡が加わることで『見る』という見えない行為をより意識的に感じたいと思うのです。」*1 などと言っている。そして「不可視のものを可視化する」ために、僕も含め実に多くのアーティストが制作プロセスや作品に写真を用いてきたのではないだろうか。

写真を見る面白さのひとつに、ベンヤミンのよく知られた「カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。(中略) 人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現れるのである」という「視覚における無意識的なもの」があるだろう。*2  たしかに写真の表面には不確かな肉眼の世界ではなく、世界はこの様に在るという確かさと正しさが定着されている様に思える。人は写真を通してこの世界の理解を深めてきたと言っても過言ではないだろうし、それはそれで納得する。だがいつも制作を通じて実感するのは、結局のところ写真を見るこの目はやはり肉眼でしかないのだ。肉眼はどこまでも頼りなく恣意的で、人は写真を写真の様に見ることなど永遠に叶わないのではないか。

しかしこの肉眼の不確かさは見ることのよろこびあり、豊かさでもある。写真の表面でさえ恣意的に見てしまう我々の目は、不確実な想像力の目を開きこの世界を捉え返す。いやむしろ写真の確かさが我々の目がいかに不確かであるかを認識させ、行き場を彷徨う視線に、目に見えないものを絶えず立ち上がらせてくれているのではないか。見ることの不可能性は可能性に満ちた領域だ。だが一方で「見えない」というのは負の側面に容易く転じてしまうことを我々はよく知っている。

 

茅ヶ崎市美術館で行われた個展『写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS』の会期終了とほぼ時を同じくして、世界はCOVID-19という「見えない」ものの恐怖に瞬く間に覆われてしまった。その恐怖はウィルスが肉眼で捉えられないだけでなく、そこから派生する様々な負の感情が容易く伝播してしまう恐怖でもある。恐れは想像力だ。人は見えるもの以上に見えないものへの想像力が働く。人は想像する生き物なのだと改めて思う。

今はこの事態がいつ落ち着くのか先が不透明な状況だが、「見えない」領域をはっきりと見せ突き付けられたCOVID-19以降の世界は、それ以前とは全く違った世界に見えるのか。それとも事態が収まってしまえば我々は長い時間を要せずともこの時を忘れ去り、以前と変わらぬ日常が戻るだけなのだろうか。予言することなど出来ないが、僕自身はやはり見ることの不可能性に可能性を見いだし、制作を続けるだけだろう。

 

 

2020年4月 自宅にて


*1  城田圭介『写真はもとより PAINT, SEEING PHOTOS』茅ヶ崎市美術館, 2019年, p.4

 

*2  ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』(久保哲司訳)ちくま学芸文庫, 1998年, p.17~18

※そういえばベンヤミンはクレーを高く評価していたことでもよく知られている。