視差と時差
1. 対象(静物)を写真に撮る。
2. 1と同じ位置から対象の絵を描く。描くとき1で撮った写真は参照しない。(1と2は順序が逆のときもある。)
3. プリントした写真と絵を切り、あるいは破き、両者を重ね合わせていく。(1、2の進行中は3の結果を予め見通すことができない。)
対象を見つめる。もちろん肉眼を通して見るのだが、基本的に私たちが見ている世界は左右両眼の視差の世界だ。
次に対象へカメラを向けて見る。ファインダーを覗くその目は同じく肉眼だが、レンズを通さない世界とは少し異なって見える。カメラ自体がその構造に視差を備えているが、プリントした写真を見るときは撮影時にレンズ越しに見ていた世界とまた少し異なる。対象を見ているのではなく、写真を見ている。
こんどは対象を絵に描き起こす。レンズを通さず肉眼から直に得られる現実を絵の世界で立ち上げる。ここで既に写真撮影時と絵を描く時ではその眼差しに隔たりがある。絵は描いている間に光も色も移り変わり、視線は揺れ続ける。そして出来上がった絵を見ているときは描いているときとはまた異なる時が流れ、別の世界を見ているようだ。もはや対象は見ておらず、絵を見ている。
最後に写真と絵を組み合わせていく。肉眼そのままで見る世界、写真で見つめる世界、絵で立ち上がる世界。どれも自分の目を通して同じ位置から同じ対象を見つめ得られた世界に違わないが、得られた結果も流れる時も異なり互いのイメージは都合よく重なり合うことはない。しかし重ならず辻褄の合わない事実こそ見過ごすべきではないとの思いが働く。
正しく見ることにはいつも困難が伴うが、まずは自分ひとりの中にさえある異なる世界や矛盾、どこまでも主観に過ぎない眼差し、視差と時差に満ちた現実を受けとめるところから世界は現れるのだと思う。
展示作品にはQudrivium
Ostiumで借用した古美術品をモチーフとして取り入れている作品もある。人の手によって生まれた古美術品は長い時を経て親しまれ、所有され、それに相応する価値が付されている。展示作品には古美術品の他様々なモチーフが同一空間上に配置されているが、それぞれのモチーフに異なる時間が流れ、付される意味や価値も様々だ。これら異なる時を経た物同士が作品/展示空間において同居していることも
今回の展示では重視している。